「――――…?」

今、不意に感じた。
微弱でか細い、だけれどふるえるような、波を。
まるで何かに怯えるような、小さな、小さな

急に立ち止まった主人に、オパチョが不思議そうに首を傾げた。

「ハオさま。どうした?」
「―――……ん…、いや、ちょっとね」

マントが長い髪とともに、ばさりと翻る。

少し、風が出てきたな―――

そう誰にともなく呟くと、ハオはまた元のように歩き始めた。
オパチョが慌ててちょこちょことその後を追った。

















「“星の乙女”にはまだまだ謎が多い。最も永く関わってきた我々パッチ族ですら、完璧に彼女についてわかっている訳ではないんだ。 だから時には、俗信めいた間違った情報も流れてしまう。例えば先ほどのあの男のように」

シルバが男の倒れた場所に眼をやると、つられて葉達もそちらを向いた。
そこには他のパッチに運ばれたのか既に男の姿はなく、痕跡すら残っていなかった。

「こういった誤情報による争いは、度々起こるんだ。だからこそオレ達十祭司が、彼女を護る為、見守っている。 シャーマンファイトを進行する他に、十祭司には“星の乙女”を護るという役割もあるんだ」
「…なあ、いいか?」
「何だいホロホロ君」

挙手したままホロホロが問う。

「さっきシルバは、“星の乙女”はシャーマンファイト開催と共に生まれるって言ったよな。それはわかった。 んで、すっげえ大事な存在なんだってこともわかった。
 ―――だけどひとつ腑に落ちねえことがある。何でそんなに大事な奴が………蓮の家にいたんだよ?」

がリゼルグと去ってからずっと俯いていた蓮の肩が―――ぴくりと動いた。
シルバが答える。

「“星の乙女”はシャーマンファイト開催と共に生まれる。―――しかし、生まれる場所や時間は、その年によってまちまちなのだそうだ。 時間については大体、ラゴウが姿を見せる頃なのではと推測する者もいるが…場所についてはそれこそグレートスピリッツのみぞ知る、だ。 全く把握は出来ていない」
「全国どこでも、ってわけか」
「ああ。この地球の上ならば、どこでも可能性はある。事実、我々パッチ族の村で生まれた時もあったらしい」
「へえ」

葉が意外そうな顔をして頷いた。

「だから蓮君がに会ったのは、まったくの偶然なんだよ。たまたま今回のシャーマンファイトでは、彼女は日本で生まれた。 そこへたまたま、蓮君が通りかかった」
「……すべては偶然、というわけだな」
「ああ」

「……?」

ふと蓮がぽつりと漏らした呟きに、シルバは事も無げに頷いたが…
傍にいた葉は、やはり怪訝そうな顔をした。先ほどからずっとだ。
胡乱げな視線を蓮に向ける。
しかし蓮はそれに気付いているのかいないのか、葉の方を見ようともしなかった。





(神の導き、というやつか)

蓮は地面を見つめたまま、ひとり心の中で呟く。
何だかその見えない存在が、無性に腹立たしく思えた。

偶然。まったくの偶然。
俺があいつに出会ったのは、やはり単なる偶然だったのだ。
なんと薄っぺらい言葉か。

もう一人の自分が嘲笑する。

ほらみろ。
だから最初に出会ったあの時、突き放したまま忘れていればよかったのだ。

そうすれば、彼女を傷つけることもなかったのに。
結局はただ、未熟な己を再確認しただけで。

―――泣いて、いた。
リゼルグに支えられた彼女の背中を、敢えて視界に入れなかった。

ため息を、吐き出す。
それは鉛のように重く、何故かとても苦かった。

















「―――大丈夫?」

街道を進んで、やがて着いたのはこぢんまりとした街。
それほど発展した所ではなかったが、それでも充分活気はあり、賑やかだった。
もうすぐ夕暮れで、夕餉の時刻が迫っていることもあるのかもしれない。

「……う、ん」

心配そうに尋ねるリゼルグに、は小さく頷いた。
しっかりと握られた手が、温かい。
あれから今夜の宿を適当に取り、荷物を部屋に置いたあと二人は外へと繰り出していた。
とは言え外へ行こうと誘ったのはリゼルグで、手を引かれているは何処へ向かっているのか知らない。
だが落ち着いたのは事実で。

(…恥ずかしい)

自分の弱いところが如実に現れてしまったような気がして、は酷く後悔していた。
アメリカへ来るということは、シャーマンファイトに関わるということは……戦いに巻き込まれる可能性も、あるとわかっていた筈だったのに。
覚悟。なんて半端な決意だったのだろう。
情けなかった。

だから。
だから、蓮も―――

「ここ、入ろうか」

不意にリゼルグの声が聞こえ、は顔を上げた。
そこには小さな、少しだけ寂れた看板の喫茶店。
ガラス戸の向こうには、客の姿は殆どない。

が同意する前に、リゼルグはその扉を開けた。
ドアベルがからんからん、と乾いた音を立てた。





「はい、どうぞ」

椅子を引いてに示すリゼルグ。

「う、うん…ありがとう」

少しだけ恐縮しながら、は座った。
木の感触が、ひやりと一瞬冷たい。
それを見届けると、リゼルグも向かい側の席に腰を下ろす。
外のざわめきが、ガラスを通して微かに届いた。

各々飲み物を注文すると、しばらく互いの間に沈黙がおりた。

「………風邪は? もう大丈夫?」

それを最初に破ったのはリゼルグだった。

「あ、うん…もう、平気」
「そっか。良かった、心配したんだよ」
「…ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「………」

やれやれ、とリゼルグが苦笑した。

、この間の雪山の時からずっと浮かない顔してるよ。自分じゃ気付かなかったのかもしれないけど…何かあったの?  心配されることが、そんなにも嫌だった?」
「ちっ、違うの、違うのッ!」
…?」
「わたしは…わたしは……」

ぎゅっとは両手を握り締めた。
感情の制御が利かなくなりそうだ。

「…せっかく、蓮に連れて来て貰ったのに。アメリカまで来たのに。
 シャーマンじゃないわたしが来たって、危ないだけだってわかってたのに。
 なのに、熱出したり、さっきみたいに逃げることも出来ないで……みんなに迷惑かけてばっかりだから、だからっ」

言いながら、昂った感情に、つんと鼻の奥が痛くなる。
嗚呼、駄目。こんなの卑怯だ。
こんなところで泣いたら…また自分を正当化してしまう。

なんて―――弱い。

だから…
だから蓮も、離れていってしまったの?
情けない自分に呆れて。

雪山で熱を出した。
結局それはすぐに治った。だけど――

ごめんなさいって、言おうと思った。心配かけてごめんなさいって。
たったひとことのことばなのに。
遠かった。どうしようもなく、遠く感じた。
結局そのひとことすら伝えられないほど。

接する態度はそのままなのに。
―――何故か、壁を感じた。微かな拒絶を感じた。

名前すら呼ぶのも憚られてしまうほど  遠い、距離感。

そう、まるで少し前の自分のような。

あの日近付けたと、思ったのはきっと自分だけ。

でも一体彼に何があったのか、わからなくて。
訊こうにも訊けなくて。
だからただ推測するしかなかった。
―――そしてそれは、どんどん悪い方へと向かっていく。





「………」





泣きそうな顔を、して。
でも必死に涙を堪えている。

――――ああ、君は

「……蓮くんが、そんなに大事?」

びくり。
の小さな肩が揺れた。

「あ…ごめん。今のは少し、意地悪な言い方だったね」

―――危なかった。
内心ため息をつく。

傷つけたく、ない。でも。

本当は、諦めるつもりだった。
彼ら二人の間に割って入ることなど、出来るわけがないと思っていたから。
会って間もない自分に、そんなこと出来る筈がないと。
だけど。
雪山の時と、ついさっきの、二人を見て。





例えばそれは、単なる傷の舐め合いなのかもしれない。
己が弱いことを知っている、と言えば聞こえはいいかもしれないが、裏を返せば、それは他者に対し劣等感を持っているということに繋がる。
似た者同士。
だから惹かれたのかもしれない。





「ねえ。青空に浮かんだ真昼の月を、見たことがある?」
「…え?」

突然の問いかけに、の顔に戸惑いが浮かんだ。

「太陽が昇って明るくなったのに、空に浮かんでいる白い月。…見たことが、ある?」
「……う、ん」

恐る恐る、頷く。
リゼルグは少し口許を和らげた。

「じゃあ話は早い。―――、君が今追いかけているのは、真昼の月と同じものなんだ。
 一生懸命、追いかけるのも良いけど…
 少し立ち止まって、周りを見回しても、良いんじゃないかな」

視線はそのまま。
気付けば、口が勝手に動いていた。

「真昼の月は、それこそ気まぐれだよ。見えたり、見えなくなったり。霞がかってぼんやりして。 そんなものを見上げてばかりじゃ首が痛くなってしまうし、どれだけ歩いてきたのか、今自分が何処にいるのかもわからなくなってしまう」

それは空を飛ぶ鳥よりも稀薄で、同じ場所にとどまっているわけではない。
どこまでも揺らぎやすく、どこまでも掴みがたい存在。
そんな不確かなものを―――彼女は追っていくのか? 振り回されて、いくのか。

「少しばかり君は、空から陸へ目を向けるべきなんだと思う。自分が今立っている場所に。そうすれば…新しく見えてくるものもあるよ」

二人の間に何があったかなんて、知らない。
ただ、目の前で彼女が泣いていて、だけどその隣はからっぽだった。ただ、それだけだ。
そして、僕は。

「世界は広い。広くて、大きい。存在しているのは、君と月だけじゃないんだ」

そして、だからこそ其処だけにしか居場所がない訳では、ないのだ。月も、君も。

君を見ている人間だって、いるんだと。
そんなに傷つくくらいなら、いっそのこと  ねえ気付いて。

「ね?」

そう静かに笑って締めくくった時、ちょうど頼んだコーヒーが、かちゃりと目の前に置かれた。
リゼルグは小さく頭を下げると、カップに手を伸ばし、口をつける。
じんわりと舌先に馴染む、あの苦味。
対しては、運ばれてきたカップには目もくれず、両手を握り締めた。

「…でも」
「うん?」
「でも、わたしは…」
「―――はっきり言わせて貰うとね。…正直僕には、今の君達は都合の良いただの馴れ合いをしているようにしか、見えない」
「っ…!」

今度こそ、の息を呑む音が聞こえた。
元々大きい瞳が、更に見開かれる。

…ごめん。追い討ちを掛けるようなことを言って、ごめん。
さっき意地悪な言い方をしたと、謝ったばかりなのに。

(―――でも、)

「相手に依存して、どうするの? …そうだね、君は弱い。単純に、シャーマンとしての能力も、君は持っていない。
 でも――弱い、弱いと言って嘆くだけが、君のやることなの? 僕だって、弱い。シャーマンとしての能力もまだまだ未熟で…ハオになんか、届かない。だから僕は、巫力も、技も、シャーマンとして磨かなければならない。
 じゃあ君は? 君のなすべきことは―――何?」

言い募りながら、ああどうして僕はこんなに怒っているんだろう、と醒めたもう一人の自分が自問する。
どうしてこんなにも、わざわざ彼女を傷つけてしまうような言い方しか、出来ないんだろう。
どうして? どうして。

「っわたしは…」
「僕を庇ってくれた、あの時の君は何処へ行ったの? あの時の君は、全然、弱くなんかなかったよ」
「わたしはッ!」

突然響いたの声に、店の主人が驚いたような視線を寄越した。
だが、外界は既に、彼ら二人の意識と切り離されている。

「だってわたしはっ……強くなんか、ないもの…! 強くなんか、ないでしょう、だって、だってあんなに、みんなに迷惑ばっかりかけて、あんな風に」

(誰かに寄り掛かってばかりで)
(支えてもらってばかりで)
(何も返せない、自分)

「ならどうしたら、強くなれるの!? どうしたら弱くなくなるの? どうしたら胸を張っていられるの、どうしたら足手まといじゃなくなるの、ねえっ…」
「…そう簡単に、人は強くなれない」
「じゃあどうしたらっ――」

「だから少しでも努力すべきなんだって、言ってるんだ、僕は!」

とうとう激昂したリゼルグの声に、ぴたり、との言葉がやむ。
その唇はしばらく空回りして…結局、閉じた。
リゼルグがそこへ、畳み掛けるように告げる。

「すぐになんて強くなれない。そんなこと、僕はずっと経験してきた。だから違う。そうじゃない、そうじゃないんだ。
 僕が、言いたいのは―――」

そう、僅かに言いよどみながら。
ようやく、すとん、とリゼルグの心に落ちるものがあった。
(やっと、わかった)
どうしてこんなに――感情が、昂っているのか。

「…つらい時には頼ってくれたって良いんだ。泣きたいときは、泣いてくれて良いんだ。無理しないで。何も言わないままじゃ…何もわからないんだ」

たぶん、僕はきっと。
彼女に怒りながら―――
自分自身にも、怒っていたんだ。
少しも彼女の頼りになれなかった、自分に。
悔しい、んだ。

「限界は人それぞれだし、本人にしかわからない。それに君がどんな思いでこのアメリカに来たのかは知らないけど…でも、生半可なものじゃないってことぐらいはわかるよ」

中途半端な覚悟で来た人間に―――そんな顔は出来ない。

僕と彼女は、確かに似ている。
だから傷の舐め合いにしかならないのかもしれない。
蓮くんとの関係を、馴れ合いだなんて称しながら。
結局は。





―――でもね。





君を守りたいと思ったのは、真実だから。
劣等感を埋めるためじゃない。

ただ。
ただ、そう。
それは純粋に――――


「それに、はひとつ、勘違いしてる」
「…え…?」
「迷惑と心配は、とても似ているけど…本当は全く違うものなんだよ。心配っていうのは――大切だから、するんだ」

別に悪いことなんかちっともしていないのに。
君はいつも、謝っている。

「君が倒れたって聞いた時、とても気が気じゃなかった。君が泣いてしまった時、もの凄く…心配、したんだよ」

結局は、そこなんだと思う。
そうだ。
心配、だったんだ。
あの瞬間、まるで世界が凍りついてしまったみたいに。

…だからこうやって。
僕は今、君の傍にいる。

「迷惑なんかじゃないよ。だって……君が無事だってわかった時は、ほんとうにホッとしたんだから。きっと葉くん達だって一緒」

それを伝えたかったんだ。
だって、みんな君のことが―――好きなのに。
それなのに、君自身がそんな風に思っていたら。
そんな、理不尽なことって、ないでしょう?

――だから、ね。

「もしも今度、具合が悪くなったり、怖くて泣きそうになってしまったら……もしもそれを、誰かに打ち明けることが出来なかったなら。
 その時は僕に言ってよ。…受け止めるから」

君の拠り所になるから。
他の誰でもない、この僕が。

近付きたいんだ。
誰よりも、君の近くへ。
たとえ君が何者であっても。


「君は―――僕にとって、とても大切な女の子だから」

ねえ、笑ってよ。
だって君のおかげで
僕は救われたのだから。
君は弱くなんかないって
知ってるから。

だからごめんだなんて言わないで。
弱いだなんて言わないで。



――

きみが、好きなんだ。





心のどこかで、またもう一人の自分が淡々と問う。

僕は、どうしたいの?
彼女を励ましたいのか。
彼女に新しい一歩を踏み出させたいのか。
それとも――

巧く蓮くんの代わりになって、あわよくば彼女の『大切なひと』に為りたいのか。



嗚呼―――



たぶん    全部、だ。

(蓮くんの存在は、今の彼女にとって負担以外の何者でもないんだと、嫌でもわかっていたから)











「もうひとつ、訊いてもいいか?」

今度は葉が手を挙げた。
うーんと何やら唸りながらの質問に、「何だい?」とシルバが首を傾げる。
葉は言った。

とハオの関係なんだ」

その瞬間、
ぴくりとシルバの眉が動いた。
誰にも気付かれぬほど、微弱に。

「何かよ…日本の飛行場でも、こないだの雪山でも……ハオに会って。どうにもあいつら、何かあるような気がしてならないんよ」

何かを知っていそうなハオ。
記憶がないという
この二人は一体どんな関係なのか――
それは、この場の誰もが抱いているであろう疑問。

しかしシルバが口を開く前に、ホロホロが遮った。

「って馬鹿かお前ェ、まずはシルバにハオを知ってるかどうか訊くのが先だろ。何いきなり核心突いてんだよ」

そりゃ俺だって気になるけどよ…と零し、ため息をつく。
そう言われてやっと、

「ん? おお、そうか…何となくオイラ、てっきりシルバは知ってるもんかと思ってたんよ」
「何だそれ。どんな勘だよ」
「いやあ」

何に照れているのか頬を掻いたあと、葉は改めてシルバに尋ねた。

「悪かったなシルバ。で…ハオって奴、知ってるか?」
「…ああ」

心なしシルバの声が硬かった。
だけどそれすら、誰にも悟られぬように。

「彼は我々十祭司の間でも有名だからね。…でもすまないが」

それはどこか、有無を言わせない強さを秘めて。

「―――との関係については、知らない、な」

シルバは言った。
断定、した。

それを受けて、明らかに残念そうに「うえぇ、そうかあ」と葉が嘆息する。
ホロホロや竜も、同じように息を吐いた。

「あ、そうだ。蓮くん」


「………何だ」

ふとシルバが名前を呼ぶ。
すると話に殆ど入らず、黙っているだけだった蓮が、小さな声で反応した。

のことなんだが…」
「………」
「変わりはないかい? …少し、不安定なようだったけど」

蓮をじっと見つめて。
シルバが問う。
それに対し、蓮は視線を合わせることはせず―――
ただ、同じく小さな声で。

「……いや」と、言った。

それは少しだけ、不似合いな沈黙。
たった数秒の沈黙。
だけど、一歩間違えれば、相手に疑念を抱かせてしまいそうな

しかし。
シルバはほんの一瞬蓮を見つめただけで、「…そうか」とそれだけ答えた。

「―――それじゃあ、長々と引き止めて悪かった。我々はこれから後始末をしなければならないし、君たちは街へ行ったほうがいい。そろそろ日も暮れる」
「おおそうだな。…さんきゅ、シルバ。今日は助かった」
「なに。私は自分の務めを果たしたまでだよ」

そこにいるのは、いつもの優しい十祭司の彼だった。

その後葉たちはシルバと別れ、街へと向かった。
リゼルグとがいる街へ。




















「…リ、ゼルグ…」

さっきの激しさは、もう微塵も見えない、穏やかな眼差し。
その視線に見つめられて、自分の中の荒波が徐々に静まってくるのがわかった。
やっと理解する。
彼が、怒っていたことを。
何に対して、怒っていたのか。

「ん?」

屈託の無い瞳で、リゼルグが首を傾げる。

「…、なんで……」

ああ。
言葉が、続かない。
言いたいことも…言わなければならないことも。
それこそ沢山あるはずなのに。
どうしてか、唇は空回りしてばかりで。

すると。
何かを感じ取ったのか。

「前に、僕に言ったよね? 『ほっとけない』って。…その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」

そう言って。
彼は意地悪そうに笑った。

―――――とくん

あれ…

胸が、ざわめく。
確かこの感覚…
そうだ、あの時。リゼルグが仲間になった日の夜。ホテルの屋上で。

あの時と同じ真っ直ぐな眼が、此方を見つめている。
優しげな光を湛えて。

「リゼルグ――」
「ん?」

ぐるぐるしていた気持ちを。
やっと捕まえる。
やっと、その手に掴んで引き寄せて……唇に、乗せる。

「……ありが、とう」

そう伝えると、

「――…どういたしまして」

そう言って、彼はまたにっこりと笑いかけた。
心の底から、嬉しそうに。
そして、打って変わって、今にも消え入りそうな声で。
「…さっきは怒鳴ってごめんね」と。
気にしていたのか、どこか気まずそうに謝った。

「い、いいの、大丈夫。わたしの方こそ、急に大声出しちゃって…」

慌てて訴えながら。

―――――とくん

ああ…また。

顔が、微かに熱いのは、どうして?

「―――わ」

不意に、くしゃりと頭に手が置かれた。
びっくりして声をあげると、くすくすと笑う気配。

「泣かないで、
「…っないてない、よ」
「そう?」

そのまま髪をくしゃくしゃにされる。
リゼルグは、微笑んだまま。
何となく逆らえなくて、はされるがままになった。




















「じゃあ、ホテルに戻ろうか」
「―――うん」

喫茶店から出ると、日も傾きかけて鮮やかなオレンジ色に染まった道を、二人は歩き始めた。
行き交う人々の真っ黒な影が、細く伸びて石畳に落ちていた。

「あ、そうだ」

ふとリゼルグが声を上げた。

「そういえば葉くん達にホテルの場所教えてないや…そろそろこっちに来るだろうし…迎えに行かなきゃ」

でも、と。
何かを言いたげにを見る。
それに気付いたは、

「いいよ、リゼルグ。行ってきて。…わたし、先にホテル戻ってる」
「…だけど」

心配そうに顔を歪める彼に、は「だいじょうぶ」と首を横に振った。
渋々リゼルグも了解する。

「じゃあ……またあとでね」
「うん。いってらっしゃい」

すぐ戻るから、と言いながらリゼルグは街の入口へ駆け出した。
も手を振って見送る。
そしてその背が建物の影に隠れて――
もくるりと踵を返して、今夜の寝床となるホテルへ向かおうと、一歩踏み出したその時。



「ひとつ、助言をあげようか」



「……!」

不意に出現した背後の気配に、の身体が凍りついた。
恐る恐る振り向けば、そこには―――マントを羽織り、長い髪を靡かせる、少年。

「どうして…!」
「君が泣いていると思ってね」
「え…?」

謎めいた微笑を浮かべるハオの言葉に、は眉を顰める。
しかしハオはあくまでもにこやかな姿勢を崩さず、口を開いた。

「強くなりたいんだろ?」
「………」
「心の奥で、君はいつも願っている。強さが欲しいと――誰にも守られなくて済む、強さが」

どうしよう。
今すぐ振り切って、駆け出したい。走り出して、この場から去りたい。
なのに――
何故か目が、離せない。
引き付けられる。

ハオの唇が、動いた。

「詩には、古来より宗教的な意味合いが深い。キリスト教の賛美歌然り、ルーン魔術の詠唱然り。日本では神楽と一緒に歌を詠む。 人は歌に、祈りや感謝、そして願いを込める。 神と交流する為のひとつの手段であると共に、非常に呪術的なものとして扱われてきた」

……ただ淡々と。訥々と。
彼は語る。

「君は、詩に力を宿す。詩とは言葉。言葉に宿る力とは―――言霊。つまり君が操るのは言霊だ」
「……?」
「言霊はどんな言葉にも潜在する。単語然り文章然り」
「…どういうこと…?」
「“星の乙女”たる君が命ずれば、万物は君のためだけに動くということさ」

―――…?
…わからない。
彼が何を言っているのか、余りに唐突過ぎてわからなかった。
だからだろうか。
その意味を吟味する暇もなく、ハオの声はただ意識の外へ流れていってしまう。

ただ、鼓動が早くなった。
これは―――警鐘?
足は動かないのに。
ただ頭の隅っこが、早くここを去れと命じる。

ふう、とおもむろにハオが息をついた。

「やはり今の君は、僕を随分警戒しているみたいだね」
「今の…?」
「そうだよ。…じゃない、今の、君」

「…!」

また、あの名前。
知らない名前。

「あなたは……わたしの何を、しってるの? その名前は何なの?」
「僕はね、君のことなら、たぶん今の君以上に知っていると思うよ。勿論――あいつらよりもね」

微妙に答えになっていない答えを返しながら、ハオが視線で示す。
つられても見やると、そこには―――リゼルグに案内される、葉達の姿。
遠目で、向こうは此方に気付いていないみたいだけれど。
確かに彼らだった。

くす、とハオが微笑んだ。

「―――じゃあね」

そうして、瞬きをしたほんの一瞬の内に―――
あの少年の姿は掻き消えてしまった。

「………」

呆然と何もない宙を見つめる
なんだったんだろう、今のは。
葉やリゼルグの声をぼんやりと聞きながら、は不安げに、空を仰いだ。
血のように真っ赤な夕焼けが、見えた。















「ハオさま、さまのこと、すき?」
「どうしてだい?」

夕闇に包まれる街道を歩きながら、オパチョの問いかけに、ハオは逆に訊き返した。

「だってハオさま、いっつも、みてる。さまのこと、みてる。いつもきにしてる。
 …オパチョしってる。はなぐみ、だからおこってる」
「あはは」

確かに最近、花組の機嫌が余りよろしくない。
とは言え、ハオは既に承知済みだった。
知っていて、尚且つ放って置いている。

「ねえオパチョ。君はのこと、どう思った?」
「…?」
「正直な感想でいいよ」

そう言われて、オパチョは素直にしばしうーんと考える。
そして、おもむろに顔を上げて。

「まっしろ」
「うん?」
「まっしろ。あと、しずか。さまそんなかんじ」

自分が思ったことを、正直に。
オパチョの言葉を聞いて、くす、とハオが微笑む。
まっしろに、しずか。
なるほど確かに一番適当だ。

「…の心は、僕ですら、完璧には視えないよ」

わかるのは――単なる大きな感情の波だけ。
それも至極微弱な波動を、ようやく感じ取る。

独り言のように呟きながら、ハオは遠くの空を見つめた。
紫と、藍色の混ざった空を。
そして―――その、もっと先を。

勿論それだけではない。
あの強大な存在でありながら、不安定でちっぽけな少女との因縁は。
そう簡単に口に出来るほど、単純なものでも、薄いものでもないのだから。
…道蓮とは、違う。

だが、先ほどのオパチョの質問に。
あえて答えるならば。

「ふふ、そうだな…―――」

いつしか目を細めて笑いながら、ハオは言った。

「好きなんて言葉じゃ、足りない」

その声は、迫り来る夜に、静かに消えていった。